コーピングってそういうことだったのか
昨日の記事で依存先を増やすことについて書きました。依存先といっても、頼り切る人を増やすという意味では無く、気持ちの支えや安定になるものとか、自己欲求を満たすものとか、単純に楽しめるものという意味です。
その時に何かに気付いたような気がして、でも分からずにもやもやしていたのですが、やっと分かりました。昨日の記事はトイアンナさんの記事から引用させていただいた部分があるのですが、
報酬を得られる場所を1つに絞りすぎると、そこがダメになったとき心が折れてしまう。だから依存は、しまくったほうがいい。ありとあらゆる方向へ、少しずつ。
最後に、脳性まひを患いながら小児科医でもある熊谷晋一郎さんの言葉を引用させていただき終わりとしたい。
”健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。”
この依存先というのは、言い回しは違うものの、結局はコーピングと同じことなのではないかということです。
ストレスとうまく付き合う方法―2種類の「ストレス・コーピング」で回避する|「マイナビウーマン」
コーピングには大きく問題焦点型と情動焦点型の2つに分けられますが、問題焦点型の一部を除けば、ほぼ同じ意味なんじゃないかなと思います。NHKの特番でも趣味や楽しみ、リラックスできることはちょっとしたことでも良いのでできるだけたくさんある方が良いとコーピングについて紹介していたのを覚えています。
”一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できる”という部分が凄く頭に残っていて離れません。「なんとなく楽しく過ごす」という普通の人にとっては普通過ぎることを言っているのですが、本当にこれができなくなってしまいました。昨日にも書いたとおり、依存先は少しずつ取り戻すしかないので、ボチボチやっていくしかないんですけどね。